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あらゆる美を捉える感覚 ~「世阿弥を読む」 を読む

「世阿弥を読む」 観世寿夫著 萩原達子編

能は自然現象にも影響を与えうる、という能の講義を受けて依頼、能が気になっている。あのストイックな雰囲気も好きだ。

ある時、メガロシアター主宰で、能楽師の今井尋也から、「能を知りたいんだったら」と勧められた本。
著者は1978年に、わずか53歳で亡くなった、戦後を代表する天才的な能楽師。

能の持つ儀式性、呪術性が少しでも分かり、現代を生きる我々の表現の助けになればと、難しそうなのを覚悟で読んでみた。

が、意外と平易で分かりやすかった。勿論、能の専門用語はバシバシ出てくるので、能の知識がゼロだと厳しいかもしれないが(そんな人には、「花よりも花の如く」という能の漫画が分かりやすくてお勧めです)、著者が亡くなって20年経った今でも、充分に通じる。

能の詳しい成り立ちから現在までの話(単なる地方の演劇団体だった座を、観阿弥が都にのぼり、成功させ、息子の世阿弥がそれを深化させた。が、江戸時代には幕府の芸能として、固定化されてしまう。明治維新後、後ろ盾がいなくなり、存続の危機に面したが、それがかえって能や能楽師自身の存在意義を問うことになり、その結果名人が続出したが、戦後は、家元制度や能を見に行く=サロン的なヌルイ感じになってしまっている)など、能にまつわる知識は勉強になるが、

何よりも今後の自分の表現に役立つと思ったのは、世阿弥と、著者の芸能に関する考え方だ。

音楽は嗜好品だ。なので、どんなに心血注いでも、客の好き嫌いに振り回されてしまう。が、その好き嫌いを超えた表現を出来ないものだろうか?もしくは、客と演者という枠を超えた表現は無いのだろうかと、私は考えてきた(折角、音楽をやるんだからね)。

その答え(もしくはヒント)が、600年前の世阿弥の著書に書かれているのは驚きだ(むしろ600年前だからこそ、といえるかもしれない)。

特に心に響いたのは、「幽玄」に関する著者の説明。

「幽玄の美とは、外面に顕現される美しさだけでなく、美しいものを発見する感性。演技者の場合、あらゆる美を捉える感覚とそれをいかに技術を通して表現にもっていくか稽古とは具体的な課題を通して技術の基本を極め尽くすこと。」

灰野敬二さん等、現代を生きる一部のアーティストで、好き嫌いを超えた表現をする人達がいるが、彼らとそれ以外のアーティストの違いは何だろう、と思っていたが、これが答えの1つだと思う。日常的に、「あらゆる美を捉える感覚」があるのと無いのとでは、日常の蓄積の結果出てくる表現に如実に現れるのだろう。

以下、その他に印象に残った点

・能の分かりにくさ=抽象性についての説明
 「呪術的な祈りの言葉となるため、歌詞の意味はたいした問題にならない。音と動きといった抽象表現が、言葉よりはるかに微妙で深遠な美を表出」
 「声の持つ実在感、声にならない息の持つ緊迫感」
 「ドラマを超越したところの生命感」
 「全体の主題が、演者の生き方と、シテの性格をつうじて、深くしっかりと打ち出されなければならない。そうしたものを踏まえれば、表面上の振る舞いや声色の真似は必要がなくなる。表面的なつじつまにとらわれず(小段ごとに別の視野からの描き方)曲の一貫性(テーマ)を打ち出す」

・能の間
 モノが壊れた時や死などに直面した時の人の沈黙とその強さ。それに対抗するぐらいの「生まれ出るためのはげしい沈黙」こそが、人間が創造をする事の意義。
 「せぬ所を心の働きによって充実させる。心を十分に動かして、身体を七分の動きにする。心の働きが客にさとられてはいけない。それはもはや技に堕してしまう。自分自身も演技しているという意識から離れる。足の動きを意識せずともあるくように。それは長年の稽古の賜物」

・稽古論
 スパルタでは無かった、世阿弥の時代の稽古。現在の能のスパルタ化は、江戸時代の影響。つまり、江戸時代に能は武士化してしまった。
 「まず声を出し体を動かす基本稽古。それから役の練習。それを経て、自分を主体にした有をつきつめる。そしてすべての有を包含したところの無を目指す」
 「稽古とは具体的な課題を通して技術の基本を極め尽くすこと。芸の格調のような形として捉えることの出来ないものを対象とするのは危険」
 「離見の見。意識を超越した次元へ追い込みつつ、舞台にのめり込んでしまわない、覚めた眼がなければならない」

・室町時代の能は、貴賤の上下なく多くの人に愛された

・体の使い方
 「無限大に通した力を集約したり開放したりする。どんな動作でも、無限に広がる空間を支配して何ものかを訴える。全ての器官が作用して、ある集中にいたったとき、観る人に何がしかの感動を与える」

・世阿弥以前の能と世阿弥の能の違い
 「違う座の演目だった曲舞を導入。そして音楽性を踏まえた叙事詩的表現をもっとも重視し、見た目の面白さだけでなく、戯曲そのものの持つ訴えかけを重大視。」
 
・世阿弥の生み出した複式夢幻能
 複式夢幻能の傑作は「井筒」。女体の能の代表。神能から発展。複式とは、前後半の2場面構成の能。前半は現実な描写。後半から現実を超えた抽象の世界へ。
 猿学の祭司的呪術性を、「平家物語」「太平記」などの語りの芸と織り交ぜていった修羅能の作法が、「源氏物語」「伊勢物語」といった幽玄な素材へとすすんだ。
 「人間を、人間と運命の対決が根底にすえられているから、本質的に劇的」

・語り物の持つ呪術性
 「語るは騙る」

・世阿弥の禅
 ゼアミの空即是色の解釈は、原典「般若心経」とは別の独断的解釈。無や空とかいったところに坐段して、時空を超えた広大な世界へと展開していくこと。

・固定化の弊害
 ひとつひとつの作品を探求するよりも、パターンで処理してしまう

・自分の解釈の大切さ
 「はじめに自分なりの解釈があって、それを自分の中で消化していくうちに、解釈を超えたものを立ち現せるようにならなければならない。観客に分からせるためではなく、まず自分が納得するために、能という狭い範囲でなく、世界の中の演劇なり舞踊なり音楽なりの視野から能を見つめてみる」

・能の発声
 「腹から声を出せ」という言葉は、ゼアミの著書には出てこない。どうやら武士道的色彩に染まってから言い出された言葉らしい。だいたい江戸期はこうした儒教的な気分によりかかったことばがひじょうにはやった。

 ゼアミの発声の教え
 「名詞や語幹はなるべくつづけて発音して、活用語尾や助詞の文字で緩急の調節をやって面白さを出す。」
 「一調、二機、三声。自分の中でこれから発する声を捉え、体の諸器官を準備し、息を充分に引いて調え、声を出す間をつかんで、はじめて声を出す」
 「横の声、シュの声(これらは声の表現のこと)。両方兼ね備えた声が理想。一句の中に織り交ぜ、併用することで、呼吸や力のかけひきが生む声色の変化も加えられ、複雑な面白さが表現される」
 「興奮して高調子で喋ると音程まであがってしまい、情感本位にするといやに沈み込んでしまうことをいましめる。
 「発声の教え全体の下敷きになっているのは、息吸い、すなわち呼吸法。吐く息と吸う息、それが自由にスムーズに流れていくように肉体を訓練する、それが基礎となって声を充実させ、やがて安定した境地に達しうる
しかしこうした世阿弥の教えがそのまま現在の能の技術に伝承されているわけではない。世阿弥の著書が秘伝書ということで、ある一部分を除いては一般の能役者の目にふれることなく蔵されてしまった」
 
 著者の見解
 「鼻と口を使って静かにしかも充分に息をひきこむことによって、正しい複式呼吸が始めて可能になる。能の発声には当然ながら腹式呼吸が主体となり、胸式呼吸が補助的に併用される。
 「下顎をひいて、口を左右に開いて謡え。音ははっきり明瞭に出さねばならない、ただ音が外へ出すぎてうるさくならないために声をこめる、しかし口の中でこめるのでなくからで声がこめられるべきであって、また声が口を開いたときなるべく下顎にそって発せられる感じになるために、下顎を引き、左右に口を開くわけです。
 「発声の基本は西欧の発声法との共通点も多いし、特別変わったところがあるわけではありません。ただ謡独自の表現法はあるわけで、その技巧が謡らしさをかたちづくることになりますが、一応発声そのものとは別に考えるべきかと思います。」

・能のリズム
 呼吸のリズム

・ギリシャ悲劇との共通性
 同じ仮面劇。写実的に人物を描くのではなく、抽象的な表現。

・能の西洋での高い評価
 特に前衛のアーティストから、その抽象性を高く評価された。

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