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命を感情で表現する ~節談説教

今年の1月の公演で、広陵兼純氏の節談説教にガツンとやられてから、自分の表現スタイルに何とか取り入れるために、節談説教のことを色々と調べている。

説教とは、坊主が民衆に、仏の教えを説くこと。節談説教は、浄土真宗特有の、説教のスタイル。
普通に語っていたかと思うと、節(メロディー)の付いた語りになり、また普通の語りに戻ったり。節付きの語りと普通の語りが縦横無尽に行ったりきたりする。

その歴史は古く、仏教が日本に伝わった時から行われていたと推測される。
また、日本の豊かな話芸の伝統は、その源流を「節談説教」に求められるという。

そんな、日本の伝統和芸の「父」と呼んでも良い「節談説教」だったが、
明治以降、浄土真宗自体が、節談説教を禁じたことにより、急速に廃れ、
戦争以後は、ほとんど見られなくなってしまい、今は節談説教を出来る僧は10人ぐらいだと言われている。

非常に勿体無い!!

前述の、1月の公演を見たとき、トリは浪曲の玉川福太郎だったのだが、玉川福太郎が消し飛んでしまうほど、節談説教は良かった。

体1つで高座にあがり、自分が心から信じている教義を、1人でも多くの人に、分かりやすく、感情に訴えたいという姿勢で、かつ面白くなければ誰も聞きに来なくなる(旅をしながら回っていた僧たちは、人気が無いと、食えない)。その上で、工夫が重ねられて1000年近く。そんな伝統芸に、他の話芸が太刀打ちできる訳が無い!考えてみれば当たり前のことだ。

で、件名の言葉。
これは節談説教の本の中に書かれていたフレーズ。

民衆に教えるのだから、言葉は平易でなければならないし、内容も分かりやすくなければならない。そして、民衆は僧侶になる訳では無いのだから、完全に内容を理解させる必要はない。そこで、感情に訴える、というスタイルが発達した。

しかし、単に、感情に訴えかけるだけでは駄目で、「命を感情で表現」しなければ駄目なのだ。

節の付いた語りが縦横無尽に登場するスタイルと、この姿勢があれば、かつての僧たちが、時代時代に合わせるようにしたように、内容は現代に合うようにアレンジして行えば、節談説教は全然イケルと思うけどなあ。

あ、ちなみに、私がやるのは、「節談」の部分だけで、「説教」する気はありません。仏教徒じゃないしね。でも、彼らの迫力を生んでいる信仰。これに匹敵する、自分なりの信仰を打ち出さないと、芸としての魅力も著しく減るだろうなあ。どうしたもんか。

以下、図書館で借りた本のリスト
「節談説教七十年」 祖父江省念著 晩聲社
「「節談」はよみがえる やはり説教は七五調」谷口幸璽/著 白馬社
「説教-埋もれた芸能史からの招待 話芸の源流を探る-」小沢昭一[等]著
「日本の放浪芸」 小沢昭一著 白水社
「大系日本歴史と芸能-音と映像と文字による-第5巻 踊る人々-民衆宗教の展開-」網野善彦〔ほか〕編集 平凡社

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