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「ノイズ曼荼羅」解説

3/5の円盤で行われる「ノイズ曼荼羅」の解説を、桜井真樹子さんに書いて頂きましたので、掲載します。

詳しい解説は下記の桜井さんの文章を読んで頂くとして、今回の公演では、日本の伝統的な芸能をベースにした、新しい現代的な表現の可能性を、皆さんに感じてもらって、もしくは面白がって頂ければ何よりです。

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■3/5「ウィリ山ウンテン Vol.6 ノイズ曼荼羅」
19時開場 19時半開演
場所:円盤(JR高円寺駅下車 徒歩1~2分)TEL:03-5306-2937
http://www.enban.org/map.html
料金:チケット代2000円(1ドリンク付)
出演者:桜井真樹子、藤木友美、ノイズ合唱団(徳久ウィリアム、今井尋也、ッタッタ、五十嵐正貢、岩崎翔真、マリア、ぴろまる、畠中容子)

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 密教には、「曼荼羅供養」という儀式がある。 
 これは、導師(悟りを開きたいと思う者)が、神々を導師のもとに招き入れる作法が儀式として行われている。家に客人を招き入れるように、導師の座っている周りを導師の家(これを「道場」という)としてたとえ、家を掃除して、水を打ってほこりを沈め(日本なら雑巾がけをし)きれいにし、花を活け、香を焚き、料理を作り、部屋を飾り付け、音楽を用意する。「音楽」は、その宴(パーティ)の主旨にそった「空気」を作るための重要な役割を果たす。

 こうして招かれた神々に、導師は囲まれる。ひとりずつ神は訪れ、宴もますます興が深まるにつれて、供養の中心人物たちがやってくる。導師は、彼らをこの世の人間のように、形や色や声で知るわけではない。
 神の訪れる「気配」。それは、視聴覚で認識する「形」の前の段階の「空気」としてやってくる。
 その「気配」、「空気」が曼荼羅供養の道場に満ちてくる。
 いわゆる一般の行われる「曼荼羅供養」では、宴のバックミュージックとして「声明」が唱えられる。今回の「ノイズ曼荼羅」では、神々を招くために荘厳された家(道場)の空気、それと共に、神々が天から「ただ今お着きになられました」とばかりに、「来訪ノイズ」を聴くことができるだろう。

 神々は、ひとりずつ個別の性格(キャラクター)を持っている。その性格に相応しい姿が、色や形として「曼荼羅図」には描かれ、道場に掲げられるわけだが、今回の「ノイズ曼荼羅」では色や形による「絵の構図」のかわりに声による「音の構図」が聴かれるだろう。
 これを「ノイズ曼荼羅供養」と呼ぶ。
 
 神々は、導師の宴(=供養)に招かれる。招かれた客(=神々)は、導師の周りに座っている。導師が「さあ、宴をはじめますよ、みなさん、どうぞ、お立ち頂き、乾杯といたしましょう!」という挨拶(=「驚覚真言 きょうがくしんごん」)をすると、神々は一斉に立ち上がる。宴の始まりである。神々は各々のキャラクターを発声する。

 そして、宴もたけなわ、遂にメインイベント「大日如来の登場」である。
 大日如来こそが、今日の主賓。主賓の登場に際して、会場は静粛にそして暗転する。そして、光輝く主賓「大日如来」が我々のもとにやってきて、その輝きに人々は感興する。
 大日如来は、大盤振る舞いをする。「すべての人々をこの曼荼羅の世界(宴)に招待し、すべての生きとし生けるものと共に喜びを分かち合おう!」と。
 
 この宴が巨大な社交場へと変容するのは、これからである。「曼荼羅」の音の世界は、神々の歓喜のノイズの嵐、轟音へと突き進む。それを聞き付けて、多くの精霊がやってくる。さらには、多くの人々、生きている人、すでに死んでしまった人、動植物、すべての生きとし生けるもの(=衆生)までもが「神々のノイズ」に誘(いざな)われる。
 大日如来の仰せに従って、神々と導師は、すべての衆生を宴に招こうとする。そうなれば、もう家の中などというせせこましいことはなくなる。つまり結界(神々をお招きする場所)などは取り払われて、縁側にも宴は広がり、導師の庭は、楽しい「祭り場」と展開していく。

 「すべての衆生と宴の喜びを分かち合おう!」これを、密教供養のことばでいえば「すべての衆生を悟りの境地へと導こう」ということ。それはあまりにも広大な発想ではあるが、大日如来は「すべての衆生を宴に招く」という理想をあくまでも追求し、それに妥協をしない。導師も、その達成のために、何度でもこの世に生まれ、何度でも宴を主催する。

 すべての衆生は宴に招かれ、楽しい音楽、楽しい踊り、美味しい料理、楽しい神々(友だち)と共にいることに歓喜する。そして「このパーティを盛り上げて下さる大日如来さま、本当にありがとう」と声を揃えて賛美「仏讃」を唱える。

 しかし、大日如来は、最後に登場したにもかかわらず、またすぐにお帰りになる。「あとは、みんなで楽しむように」と、御祝儀(慈悲)を置いて、早々にお帰りになる。それを、衆生は「ありがとう、大日如来さま、さようなら、またお越し下さい。」と、お見送りする。
 導師は、締めの挨拶をし、残った御馳走(慈悲)をお土産にする。どうしてもここに集まれなかった衆生にと、各々の来客は「慈悲の土産」を持たされて、分け与える。

 これが曼荼羅供養の根本理念であり、「ノイズ曼荼羅」の目指すところである。すなわち、大日如来という主賓が、多大な祝儀(慈悲)を持って来訪したお陰で、このパフォーマンスがとんでもなく盛り上がり、聴衆者は、このパーティーを大いに楽しむのが、「ノイズ曼荼羅」の主旨である。

 曼荼羅供養には、「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」がある。今回は、「胎蔵界曼荼羅」の声明を採用する。「胎蔵界曼荼羅」、これは、胎児が母親の胎内(暗闇)から、この世界に生まれてくる劇的な旅路を、自分の中で、もう一度甦らせることによって、「光り輝く神=大日如来」の来訪のイメージの手がかりにする。それは「産まれた私」は「光りに包まれた私」であり、これが産まれるということ。「私という人格の始まり」、そこには「光だけがあった」、そういう瞬間である。花にたとえるなら、固い蕾(つぼみ)が膨らみ、やがて閉じていた花びらが開いていく、一連の時の流れのようのなもの。
 生命の誕生の旅路が供養の式次第(順序)となる。

 「母の胎内によって体験したこと」は、アジアにおいても近代社会の台頭によって、インド、中国、チベットの仏教の中では、重要視されなくなり、消滅していった。「胎蔵界は金剛界には劣る曼荼羅である」というふうに。
 しかし、なぜか日本では、実質上、消滅することはなかった。この「胎蔵」のイメージ(界)は、日本人の山岳信仰や伝統芸能の中に残っていった。
 日本には「胎蔵界」の感性が、今でも生きづいている。

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